イースタイン社での修業を経て、神戸のピアノメーカーへ
―平山さんもお父様と同じように(企業の本音 No30 参照)栃木のイースタイン社で修業をされたそうですね。
・・・1989年の4月からですから、ちょうど21歳の時です。それから工場が閉鎖されるまでの1年半くらいの間、弦を張ったり手の動きを弦に伝えるアクションの組み立てなど、仕上げの工程を担当していました。父の話にもあったと思いますが、そのころの工場はもう規模が縮小されてきてましたから、わずか10人ほどの従業員しかいませんでした。
工場には、僕のような研修生が他にもいたのですが、研修生はみんな「あんちゃん」って呼ばれて、厳しいときもありましたが、丁寧に指導してもらいましたよ。普通だったら1時間でできてしまう仕事に2日かかったとしても「とにかくいいものを作れ、早く社会に出て親孝行しろ」って口癖のようによく言われましたね。短い間でしたが、熟練した技術者の技を間近で見ることができて、貴重な経験をさせてもらいました。
―工場が閉鎖されてから、その後神戸に行かれたそうですね。どのようなお仕事をされたのでしょうか?
当時、スタンウェイピアノの総代理店だった「松尾楽器商会」に入社しました。スタンウェイはコンサート用ピアノを中心に扱っているメーカーで、茨城県だったら、日立のシビックセンター、水戸芸術館や文化センター、市民会館、ひたちなかや鹿島までほとんどのホールでスタンウェイのピアノが使用されていると思います。ですから、僕も必然的にコンサートホールなどにあるピアノを中心に、調律・調整を担当していました。
―コンサート用ピアノだと多くの人が聴くことになりますから、より緊張感がありそうですね。
たまに、コンサートの本番中に調整するときもあるんですよ。そうすると何千人というお客さんの前で調整をしなくてはなりませんから、最初は物凄く緊張しましたね。でも、慣れてきたらその緊張感もおもしろさに変わったかな。
大阪ブルーノート専属チューナーとして活躍
―松尾楽器商会に入ったきっかけは?
イースタインが閉鎖になってしまってから、たまたま松尾楽器商会の人と釣りに行く機会があったんです。ちょうど神戸に支店が立ち上がったばかりの時で、若くて適当に使える人間が欲しかったそうです。僕もその時、仕事がなかったので「だったら神戸に来る?」みたいなノリで誘われたんです。でも、最初って使いものになりませんから、入社した頃は給料もなく丁稚奉公状態で、ひたすら技術を勉強する毎日です。働く大学に行くような感覚でしたね。それから1年も経たないうちに、大阪ブルーノートの専属としてピアノの技術を担当させてもらえるようになったんです。
―ブルーノートといえば、東京・名古屋・福岡などを中心として国内外から大物ミュージシャンがやってくるライブハウスですよね。そこの専属チューナーというのは凄いですね!
その頃はちょうどバブル期で、ホールは増えるしピアノも売れるしで、会社にはどんどん仕事が舞い込んできたんです。大阪のブルーノートもオープンしたばかりの時で、専属チューナーを探していたんですね。ある日、上司から「やる?」みたいなノリで言われたことがきっかけで、それから10年間専属としてやらせてもらったんです。
―なんか「来る?」、「やる?」みたいな簡単なノリが多いですね(笑)。
きっかけってそんなもんですよね(笑)。他のみんなも聞かれたんですが、「う〜ん」って怖気づいちゃうんですよ。でも、僕はチャンスだと思ったので「やる」と言ったんです。ただ、やると言ったはいいのですが、実際やってみるとチューニングがなかなかうまくいかなくて。というのも、その時は知らなかったのですが、実はそのピアノ、じゃじゃ馬みたいな相当なクセがあったんです。
そもそもピアノって、木と鉄できたものですから、湿度やライトによって弦が伸び縮みするという、いわば生きものなんですよ。ブルーノートのピアノは、クセがありすぎて、チューニングをするのにもコツが必要だったんですね。みんながやりたがらないわけです。僕は、なんとかコツをつかむことができて、ここまでやってくることができました。
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