HOME > This week pick up >  ビバ・ラ・ジョビ バックナンバー


 サッカーをずっとやってきて思うのは
頑張ってる人には1年に1回絶対にチャンスが来る

2004/11/15 VOL.32
FC水戸ホーリーホック 北島 義生さん

北島 義生
Yoshio Kitajima

茨城県水海道市出身。
1975年10月29日生まれ。

■身長・体重
180cm/70kg

■職歴
 アセノスポーツクラブ
→トステムサッカークラブ
→広東クラブ(中国)
→大分トリニティ
→水戸ホーリーホック
→ヴァンフォーレ甲府
→水戸ホーリーホック

■趣味
読書

■コメント
無我夢中でがんばります!

■ 株式会社フットボールクラブ水戸ホーリーホック
〒310-0022
茨城県水戸市梅香1-5-5
茨城県JA会館分館2階
http://www.mito-hollyhock.net/

●1994年 :FC水戸を創設。
●1997年 :FC水戸がプリマハムフットボールクラブ土浦を吸収合併。旧JFLに初参戦。
●1999年 :Jリーグ2部制移行に伴い新JFLに参加。総合3位でJ2昇格。
●2000年 :Jリーグ加盟、J2 9位
●2001年 :J2 11位
●2002年 :J2 10位
●2003年 :J2 7位
●2004年 :J2 9位(41節現在)

 

 






















午前中は工場で働いて、午後はサッカーをやるみたいな・・・

―サッカーを始めたきっかけというのは?

 近所でサッカースクールをやってて、野球よりもサッカーの方が多少なりとも上手くできたので、たまたま入っただけなんです。やってくうちにだんだん面白さがわかってきた感じですね。

―学校の部活には入らず、クラブチーム(アセノスポーツクラブ・守谷市)でサッカーを続けてらしたということですが・・・

 はい。ずっと教わってきたコーチがいたので、その人についていった感じです。今、考えれば高校でサッカーをやっとけば良かったなって思うし、しっかり練習ができない環境だったし、もっといい選択はあったと思いますがね。柏レイソルとかヴェルディのセレクションとかで受かってたんですが、何で行かなかったのかなって思いますね。

―その頃はまだ、日本でプロのサッカー選手になるという夢は、現実的ではなかった時代だったと思うのですが、小さい頃から、プロサッカー選手になるという気持ちはあったのですか?

 サッカーを始めた小学校1年ぐらいから、ずっと思ってましたね。まずトレセンに入るのがずっと夢で、それからプロになるって思ってて、なれるとも思ってたし、それしかないなという感じで。今考えれば何でなれると思ったのか分かりませんが。

―トレセン(※)にも登録されていたのですか?

 はい。でも、別にエリートでもなく、いろんなチームからオファーが来たわけでもなく、合宿でも川口(※川口能活選手:ノアシャラン=デンマーク)とか山田(※山田暢久選手:浦和レッズ)とかと一緒にやっていたんですけれど、全然そういうレベルでもなく、全く違う世界としてただ一緒に合宿をやっていたというだけなんですけれども。そんな中でも、小さい頃からプロになりたいとずっと思っていたんで、気持ちはずっと持ち続けていました。

―高校卒業以降の活動は?

 卒業してトステムに働きながら、会社員として午前中は工場で働いて、午後はサッカーをやるみたいな、そこでJリーグを目指していたんですが、県リーグというJリーグはほど遠いところで、ずっとサッカーをやっていたんです。

(※トレセン:日本におけるユース年代(小学生から高校生まで)の強化・育成のための中心的な施策として1980年から本格的な活動が開始さたトレーニングセンター制度。将来、トップレベルの選手になれる可能性を持った選手を発掘し、年齢・所属などを超えてハイレベルな環境を与えることがトレセンの役割となっており、各年代の代表選手の多くが、トレセンを経験しています。)

中国でプロになるという逆の形

―転機となったのは?

 その時に、コーチで来ていた中国代表の元選手が、中国でも力を持っていて、チームにいるアマチュア3人を中国に連れていくという話しがあったんです。最初は自費で留学という形で半年ぐらい、良ければ契約してくれるということだったのですが、まあ、このままでは上も目指せなくなるし。自分の中では、働きながらというのも嫌だったので、会社を辞めて、3人で中国に行きました。

―その時の心境は?

 プロになるためにはその選択しかなかったんで。何個かあれば選べたかもしれないけど、それしかなかったんで、プロになれるチャンスかなと思って決めました。

―中国でプロになった経緯を聞かせて下さい。

 最初は、3人とも2軍にいたんですが、試合に出してもらえるチャンスがあって、その時に活躍することができたんです。チャンスを活かす事ができたんですね。それで、サテライト(2軍)でレギュラーになりました。その中からは5、6人しかトップチームに上がれなかったんですが、監督がすごい僕を気に入ってくれて、僕だけプロになることができたんです。
 中国で2年ぐらいやって、帰国して、当時、JFLの大分っていうチームにテスト入団して、その時初めて、日本でもプロの選手になることができたんです。
 最初に中国でプロになるという逆の形でしたね。トステムでやってるときはほとんどアマチュアで、あのまま続けていたらプロにはなれなかったなっていうのはありますね。辞める時は周りからも言われたんですが、まあ、それが正解だったのかなと。一応プロになることができて、いろんな経験を若いうちにできて、生きていく上でも、その時の経験が結構、活かされているっていう感じがあります。

言葉も分からないし、住む所も汚かったし

―中国での経験が、その後も影響を与えているということですね。

 そうですね。やっぱり、サッカーだけをやることを考えてきたし、技術的にも、サッカーに対する考え方も、プロの中でできたということが良い経験になっていますね。でも、やっぱり生活の面で苦しかったんで、精神的にも強くなれたことがサッカーにつながっているのかなと思いますね。

―生活面で苦しかったというのは?

 もちろん、言葉も分からないし、必ず辞書を片手に持って行動していましたね。住む所も最初は汚かったし、食事の面でも外で何を頼んでいいのか分からなかったし、日本とのギャップが大きかったですね。行った当日に食あたりにあって、次の日病院に担ぎ込まれて。初日からそんな感じだったので、もう帰ろうかとも思いました。けど、会社を辞めて、せっかくみんなに見送ってもらってたのに、帰るわけにいかないなと。

―チームメイトとはいかがでしたか?

 最初は3人いたからよかったけど、自分だけ契約になったわけだから行動も別になっちゃって、自分だけ中国の選手と住むことになったんです。当然、日本語で話すことができなくなってコミュニケーションとるのが難しかったですね。
 そんな中でも、自分によくしてくれる人が何人かいて、言葉ができないのに他の友達に紹介してくれたりして、すごく感謝しています。最初は言葉も分からないし、気も遣うので嫌々だったんですけど、誘ってくれるし、行かなきゃ始まらないかなと思って。そのうち、自然と人付き合いができるようになって、今でも連絡を取ったりしています。


本当に怪我をして良かったなって思います・・・水泳の北島選手とか、レスリングの山本聖子選手とか・・・

―サッカー選手として活躍されているわけですが、仕事として難しさは?

 1年ずつの契約ですから、来年はどうなるかという将来の不安だとか、試合に出られない時や・・・、去年は1年間怪我で出れなかったんですが、そういうところでしょうか。

―大きな怪我(※シーズン前の練習試合で左膝前十字靱帯及び半月板を損傷)をされてブランクがありましたが?

 それまでは大きな怪我をしたことなかったし、年齢的なこともあったので、最初の何週間かはどうしようかと思いましたね。でも、無駄なことは考えないようにしてるし、結局答えが出ないことは考えるだけ気分も悪くなるし、だったら前向きに考えることにしようと。入院して何か面白いことはないかなって考えるようになりました。

―実際に、入院生活で面白いことはありましたか?

 JISS(国立スポーツ科学センター)っていうオリンピック選手などが使う施設に3ヶ月くらい、いることができたのが大きかったですね。リハビリしている選手と交流を持てて、友達ができたんで、すごい財産になりましたね。水泳の北島選手とか、レスリングの山本聖子選手とか体操の選手とか。みんな前向きだし、彼らは社員という形で競技をやっていて、スポーツに対する意識の面も違うし、すごく影響されました。人脈も広がったし、いろんな話が聞けてすごい勉強になったんです。本当、怪我してよかったなって思います。栄養士もいるし、万全の施設でした。


現状に満足していたら、これ以上、上にいくことはできない

―アクシデントを逆にエネルギーに変えて前進している印象を受けるんですが?

 試合に出れる出れないは監督が決めることでしようがないじゃないですか。自分で調子が良いと思っていても試合に出れないことってあるんです。試合に出れないのは自分の調子のせいじゃなくて、戦術とかいろいろな面で出れないんだと思うようにしています。だから、このまま続けていけば絶対チャンスは来るだろうと思います。
 サッカーをずっとやってきて思うのは、頑張ってる人には、1年に1回、絶対にチャンスが来るということです。それをモノにしている人はいますから。
 下手でもサッカーに対して真面目に取り組んでいれば、絶対チャンスは来るんですよ。今年の最初も結局、自分では調子良かったと思ったし、怪我も治ったけど全然使ってもらえなくて、それでも、チャンスは来ると信じてやってたんで、来たときに活かす事ができたのかなと。それから、試合でも使ってもらえるようになったんだと思います。

―同じ職業を目指す人へのアドバイスをお願いします。

 あまり勧められない気がしますね(笑)。安定してないし。ただ、どうしてもなりたければ人より何倍も頑張ればなれると思います。

―将来の夢は?

 サッカーに関しては、上のレベルのチームにいきたい。そのチームがJ1だったら、いいけど、行けないのなら他のチームに行く。それは自分をステップアップさせるためで、大事なことだと思うし、現状に満足していたら、これ以上、上にいくことはできないと思うんです。

―地元チームへのこだわりというのは?

 それはもちろん愛着もあるし、一番長くいるチームだし、あるんですけど、その前に僕はサッカー選手なんで。上のJ1のチームでやりたいっていうのはあるし、まだJ2でしかやってないんで、J1でやるとまた違う世界も見えてくると思うし、サッカー辞めた時にJ1でやっていたというのは違うと思うし。

―サッカー以外の夢は?

 長くやってもあと2、3年しかできないじゃないですか。その後の仕事も頑張りたいと思いますね。サッカーに関わるのか、全く違う仕事なのか分からないですけど、そこでもサッカーで身に着けた諦めない気持ちで頑張ればいいかなと思っています。
 あと、 かわいい奥さんを見つけて、結婚して幸せな家庭を築きたいですね。

―ありがとうございました。










 





















インタビューを終えて

 「大変なことは忘れちゃいましたね。良いことは覚えているんですが」
 インタビュー中には掲載されていませんが、淡々と振り返ったこの言葉が印象に残っています。おそらく、これは強がりやリップサービスではなく、正直な言葉なのだと思います。
 会社を辞めて中国に渡ったことも、大怪我というアクシデントも、確実に飛躍への“足がかり”にしてきた実績があるからこそ、言える言葉なのだと思います。
 個人的に思ったのは、北島選手のような選手が活躍できる日本サッカー界の懐の深さです。お隣、韓国のサッカー界では、徹底したエリート主義がしかれ、プロへの門戸がかなり狭められていると聞きます。つまり、決してエリートではない鈴木選手や中沢選手のような、様々なルーツを持つ選手が、代表選手になることは、有り得ないというわけです。
 「どちらが良いか」という議論は別にして、様々な経歴や志向を持つ人々が働く、活躍するチャンスがある社会を願うばかりです。北島選手のように、多くの人々が「頑張っている人には、必ずチャンスが来る」と信じられるような・・