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━ 会社を設立されたのはいつでしょうか?
1936年(昭和11年)に、私の父が創業しました。父はもともと音楽が好きで、自分のピアノの調律をしたいと技術を勉強したことがきっかけで、そのまま仕事になってしまった形です。私は高校を卒業後、栃木のピアノメーカーで5年ほど修業をしてから、水戸に戻って父の仕事を手伝うようになりました。
━ 修業に行ったメーカーとはどのような会社だったのでしょう?
「イースタイン社」といって、1949年宇都宮に創業した会社です。最大でも従業員100人ほどの会社で、ピアノに使われる材木を乾かす作業から始まる全てが手作り、というピアノを作っていました。日本の大手メーカーではピークの時には一日約800台、一ヶ月で約2万台が生産されていましたが、イースタインでは全てが手作りですから一日数台しか作ることができませんでした。イースタインのピアノは知る人ぞ知る国産ピアノの名器としてファンも多かったのですが、時代の流れには逆らえず1990年に工場閉鎖となってしまいました。あれから15年、今になって技術的に素晴らしいピアノを作っていたと評価されるようになって、今年始めにその歴史が新聞で特集にもなったんですよ。


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『作ることが体に染み付いたイースタイン社での修業』
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━ 貴重な経験をされたと思うのですが、イースタインに行ったきっかけは何だったのですか?
父は、ピアノの勉強をしてきたけれども調律だけの勉強だったから、苦労した部分もあったんでしょうね。生産する現場に行って勉強するように言われました。ほとんど無給に近い状態で5年間、生産の現場で毎日作る、作るの繰り返しでした。勉強というよりひたすら作る、それがどうだってことも考えずに仕事をしていましたが、気が付けばいつの間にか作ることが体に染み付いていたんです。当時は、それが何の役に立つのか全く分かりませんでしたが、今の仕事をするようになって分かるようになりました。一から作るピアノの全工程を見てきたことが、直すということの基本にもなっていたんです。これが合理化一辺倒の大手のメーカーに行っていたなら今とは状況が変わっていたでしょうね。父はそこまで考えて、私にイースタイン社に行くように勧めたのですからよく先を読んでいたと思いますよね。
━ 平山様が水戸に戻ってお父様と一緒に仕事を始めてから、日本は高度経済成長期に入り、今は長引く不況の時代となったわけですが、ピアノの需要にも影響があったのでは?
私が修行から戻ってこの会社に入ったのは昭和37年で、その頃は、まだピアノが普及しないころでした。それから日本では子供がピアノを習うことが一種の流行となって、ピークが昭和50年代ですね。凄まじく急成長していきましたね。その頃は日本で33万台のピアノが売れましたが、昨年ではたったの4万台で、8分の1にまで落ち込んでしまったんです。お店を出せば売れるのが当たり前の時代から、多くの楽器店が閉店する時代になってしまったということは非常に残念に思いますね。
━ 今のような厳しい時代の中、会社を存続する上で必要なことはどんなことだと思いますか?
やはり信頼でしょうね。信頼があればお客様は離れないと思います。うちではピアノの調律や調整という技術的なこともしていますが、お客様は30年、40年というお付き合いの方から、創業68年来のお客様もいます。お客様のお子さん、お孫さん、またピアノの先生たちからお弟子さんを紹介していただいたりと、信頼によってお客様がどんどん広がっていくんです。ですから余計に真剣になりますよね。適当にやっていたら紹介していただいたお客様に縁切られちゃいますから。そのために私は技術面でも日々努力していますし、全ての仕事に対していつも真剣な気持ちでやっています。誰もがすぐにできるような簡単な仕事ではないのですが、私にはイースタインでの経験がありますから、それが大きな自信になっていますね。


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『ドイツで見つけた70年前の古いピアノが再び舞台へ』
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━ 日常的にはどのようなお仕事をされているのでしょうか?
技術者として、お客様の所に行って調律、調整をしています。調律とは音を合わせるってことが基本ですが、どうやったら弾きやすくなるか、表現がしやすくなるか、音が膨らむというかきれいに響くか、というのも大事なんですね。弾いてる人の気持ちをイメージして、微妙な音の変化を探しあてなければならないので、音を聞き分ける耳が重要です。
━ お仕事をされてきて印象に残っていることなどありますか?
4、5年前ですが、ドイツへ中古ピアノの買い付けに行ったんです。お店には700台くらいの古いピアノがあって、その中に70年ぐらい前に作られたコンサート用のピアノあったんです。普通だったらコンサート用のピアノってあまり需要がないので買わないのですが、なぜか気になってしまいどうしても欲しくて購入したんです。「ドイツの戦火の中をくぐりぬけてきたピアノなんだね」なんて言ってお店に置いておいたら、ある日、所沢から来たピアニスト(演奏家)のご夫妻が目に留めてくれて購入されたんです。最初はご夫妻が楽しむためにピアノを弾いていたようなんですが、ぜひみんなにも見てもらいたいと、サントリーホールでのリサイタルの時にこのピアノを持ち込んで演奏をしたんです。不思議な縁ですよね。ドイツの片田舎で見つけた古いピアノが、再び舞台で演奏されてしまうなんて。しかも、そこは音楽ホールでは日本一といわれるサントリーホールだったんですから。
━ 平山さんの目に止まらなかったら舞台に立つこともなかったということですね。
このピアノは、相次ぐ革命が繰り返されたドイツの中を走ってきたわけです。それから日本へやってきて、サントリーホールの舞台まで橋渡しができたことは嬉しかったですね。実はこのピアノ、「ベヒシュタインE型」というドイツの有名なメーカーのものだったんですが、このメーカーは最初の1台目から買った人の名前が分かる、つまり購入者リストがあるんですね。今回のピアノの購入者を調べてもらったら、1920年に作られたもので、ピアニストのためにベルリン市が発注して作られた特別なピアノだということが分かったんです。さらに調べてみると、こんな音色に作ったという70年前のピアノ製作者の意図と、このピアノのこんな音色が気に入ったというご夫妻の気に入った理由が全く同じだったんです。微妙な音色の違いを聞き分けてしまったことが凄いですよね。
━ 長い年月と人によって作られた興味深いお話ですね。最後に、今後の目標をお聞かせください。
私の持っている技術を次の世代に伝えていかなければ、と最近つくづく思いますね。仕事にたくさん興味があって、どこまでも貪欲に追求したいって人たちに指導をして、どんどん伸びていってもらいたいですね。あとは、演奏家やピアニストなどが発表する場というのが少ないので作りたいという気持ちがあります。みんな勉強した結果を発表したくてしようがないんです。それに発表の場所がないと努力する目標にならないですから。小さくてもいいからそういった場所でコンサートができればいいですね。そして、私はこのまま一生現役で仕事を続けたいと思っています。

■インタビューを終えて
平山さんがピアノに関わったお仕事を始めてから、もうすぐ50年になるそうです。その間には、いろいろなことがあったでしょうし、その道のりは決して楽なものではなかったと思います。それでも「今となっては大変なことはありません。やってよかったと思っています。」と平山さんはおっしゃいました。戦後の日本から始まり高度経済成長期、バブル崩壊を経て今は不況という時代の中、いつの時も真面目に仕事に取り組む平山さんの姿は、いつしかお客様から「信頼」というかけがえのないものを生み出しました。
「一生現役でありたい」とおっしゃっていましたが、こちらこそ「一生現役でいてください」という気持ちです。平山さんを頼りにしているピアノと人々はたくさんいらっしゃいますし、これからもずっと茨城のピアノを支えていただきたいと思います。ありがとうございました。
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