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「渋谷」という街が象徴するように、東京という場所には「行けばなんとかなりそうだ」「何かが待っていてくれるのではないか」という幻想がある。
今回の「シブヤ的生活」では、そんな漠然とした期待を抱いて上京し、現在飲食業界で独自の地位を築くに至った四宮保親さんを紹介してみたい。四宮さんが抱いた漠然とした期待に、東京という街がどう応えてくれたか、そしてそれに対し四宮さんがどう臨んだのか。飲食産業というフィールドにどんなきっかけで足を踏み入れ、どのようにしてそこに基盤を持つに至ったのか。その道程を追ってみよう。

四宮保親さん 1966年12月8日宮崎県生まれ。1984年上京。様々な飲食関連の仕事に携わる。5月1日より某大手飲食会社に就職が決定。
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>>羽田に降り立った少年
少年が羽田空港に降り立ったのは、初夏の朝だった。片手には大藪春彦の文庫本。もう片手には小さなバッグ一つ。高校三年生だった彼は、一学期の終わりに、家出して来た。宮崎県の実家で、勝手に家のテレビを質屋で売り払い、飛行機のチケットを買った。親にも二度と会わない覚悟だった。そのお金ももうない。宮崎なら空港に二、三時間もいれば、誰か知り合いに会う。少年は行く当てもなく、心のどこかで、誰かと出会うことを期待しながら、空港のロビーで、すでに何回も読み返した文庫本を読んでいた。何かがやりたくて、東京に来た訳ではない。ただ、「東京」というだけで、何かがあると思った。だが、いくら空港にいても、知り合いに会うはずもない。夜になってようやく彼は、空港から外へ出た。
土地勘などまるでない。とにかく歩きに歩き、行き着いたのが川崎近辺のとある駅だった。 そのベンチで二週間、寝泊まりした。その間に、ホームレスの人々と知り合いになり、日雇いの仕事をするようになった。その給料で宿場に泊まるようになった。毎晩、布団の柔らかさを改めて感じた。宮崎の家では当たり前のことだったことが、すべて新鮮だった。
やがて少年はセメント会社で住み込みで電話番をするようになった。二ヶ月ほど、世話になった。その間、東京に宮崎から来ている知人が何人かいることが分かった。その一人が仕事を紹介してくれることになった。連れて行かれたのは西麻布のとあるビル。その一室に入ると、強面の方々がいて、部屋のなかには「○○組」と書かれた提灯がならんでいた。そんなことでひるむような性格ではない。早速、仕事を始めたが、そこでも仕事は電話番だった。「お前は何がしたいんだ」。そう尋ねられるのが当時、一番、いやだった。東京の大学を受験するために上京してきた友人と会う度、何かを探そうと思った。
そんな時に出会ったのが、東洋ウェルターチャンピオンの富山勝治さんだった。富山さんが宮崎出身だったこともあり、取り巻きの一人と知り合い、富山さんと直接、会うことができた。「お前、いい顔してるな」。その一言で、少年の人生は変わった。昼は富山さんの運転手。夜は富山さんが経営していたスパゲティ屋で働いた。 月給は40万円。高級マンションを借りてもらい、高級車を二台も貰った。だが、何よりのプレゼントは、少年に『飲食店』という道を教えてくれたことだった。スパゲティ屋で働き始めた彼は、人生で初めて、『自分は、この道で食っていくんだな』、と確信したという。
一年後、彼は銀座にある超一流レストランのシェフに会いにいった。面識などまるでない。有名な料理本を本屋で立ち読みし、そこに記されていた編集長の知り合いと名乗って会いにいったのだ。「編集長とはどういう知り合いなの?」。「おじさんみたいな人です」。とハッタリをかましまくった。不思議と緊張はしなかった。その芯の強さが通じたのか、そのまま、その店で修行をすることになった。皿洗いから始まり、少しずつ、料理を覚えていった。友人も大勢、できた。彼の人柄を気に入り、別の店を紹介しようとする人も少なくなかった。早朝から深夜まで、修行は厳しかった。店の階段で寝ることも多かった。四年ほど続いた修行の末、彼は腎臓を壊した。三週間の入院を経て、店に戻ろうとしたが、店側の対応は冷ややかだった。それにカチンときた少年は、自分の人脈を使い、休養がてらリゾートホテルの料理人になる。だが、一ヶ月もすると、のんびりしすぎる状況にうんざりして、東京に舞い戻った。
次に彼が挑戦したのは、イタリアンだった。素材をこねくり回すフレンチに対して、素材を活かすイタリアンは、彼にとって新鮮だった。目黒にあるイタリアンの店で三年ほど働いた。その後も「料理業界は半年から一年で店を移って色々な店で勉強をする」という常識通り、数々の店を渡り歩いた。横浜ベイサイドのブチャーズクラブで料理長も経験した。
そんな彼にまた転機が訪れた。同じ時期に何人もの人から「料理人としての限界はそろそろ見えてくるかも。店をトータルでマネージメントする側になればいいのでは」と、言われたのだ。自分でもその方向へ気持ちが動いた少年は、六本木の有名フレンチレストランの店長となる。そこで、二年、マネージメントを経験。だが、やがて本当に自分のやりたい事が何なのか、再び、彼は疑問を持ち始める。そんな頃、彼は結婚を決意。 「結婚をするなら、もっとサラリーマンぽいところがいいのでは」、という割と安易な判断から、料理店を何店舗か持っていた内装関係の株式会社に入社した。
結婚は二年で破綻。就職した会社には六年在籍した。在籍中、クイズノス・ジャパンという新しい外食関連の会社にも出向。商品開発室の室長として、クイズノスの立ち上げをほとんど、任された。その会社は優秀な人材しか集めないことで知られており、少年は、いつしか、それだけの人物になっていたわけだ。
そのクイズノスもつい先頃、退社。会社の方針と自分の仕事のやり方との違いが原因だ。「周囲の人たちを裏切ることなく、真面目につきあっていきたい。そのためには、合理的でない部分がでてくるのは仕方ない。自分側だけ利益を求めていては、その商売は続かない」。これが彼の考えだ。彼は人に使われる限界を感じた。
現在、彼はまた仕事探し、自分探しをしている。東京での年月は彼にいろいろな脱皮のチャンスと、仕事のノウハウ、それに、多くの友人を与えた。遊びはほとんど知らない。仕事や、人生そのものが彼にとっての遊びだという。羽田に降り立った少年は、いつしか34歳になっていた。だが、今も、心は羽田に降り立ったときと変わらない。少年は何処へ行くのか。どこへ、向かっていくのだろか。少年は東京で男へと成長し、現在も迷走している。
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